カフェで『席を譲れ空気』を出しながら待ち続ける人の行動を心理学で考える

興味深いことがあったんです。満席のカフェで、ひたすら「長いのよね〜。なんで空かないのかしら。もう帰ろうかしら。」と利用客に聞こえるような声でつぶやきながらテーブルの側に立ち、どかせようとする方に遭遇したんです。

|某人気カフェにて起きたある事件

そこに冒頭でお話をした方が登場したわけですね。40代くらいの女性の方だったのですが、ちょうどその方がわたしたちのテーブルのすぐ側に立ち尽くし、ひたすらある程度の範囲に聞こえるような声で「なんで空いてないのかしら。長いのよね〜。なんで譲ろうと思わないのかしら。」といった事を言っているわけです。

その日は私を含め3人でカフェを利用して、コーヒーやケーキを楽しみながら、色んな話に花を咲かせていました。

結末を先に言ってしまうと、わたしたちのグループが席を空け、お譲りしたのですが、その方が暗に「席を空けなさいよ発言」をしているところに優しい男性の店員さんがいらして「満席ですので、もう少しお待ちください。」と対応してらしたのですが、女性の方は「いや、ハッ、待つんですか。空かないようなら私は帰りますよ。」なんて言うもんですから店員さんも困ってました。

私たちのグループの1人が「行こう!」と決断しましたので、その選択に従い席を立ちましたが、「あかん事したな」と私はひそかに思っていました。

私たちのメンバーが席を譲った行為と決断は全く否定はしないし、それはそれで良いと思います。他の利用客のことも考えれば、その女性がおさまることで他の人たちも居心地よくなったと思うので結果オーライと言えるでしょう。

しかし、私はアドラー心理学を専門にしたカウンセラーですし、日常をアドラー心理学的に過ごすことを目標にしてますもので、この女性に対しての行動は私個人としては考えるところがあったんです。

とはいえ私1人がアドラー的に動くわけにもいきませんし、それを周りに強要することもできません。だから私の考える行動がもちろん唯一の正解ではないことを踏まえて頂いたうえで、今回のケースをアドラー心理学的に解説していきたいと思います。

|課題の分離

アドラー心理学では「この課題は誰の課題で、その課題の最終的な結末を引き受けるのは誰か」ということを大切にします。自分が持つべき「責任」を自覚しつつ、他の人と協力をしていくための考え方です。

私が外で「アドラー心理学を専門にしています」って話をすると「アドラー知ってます!わたしは課題の分離が好きです!」と返してくれたりすることがあるのですが、詳しく話を進めていると少し認識が違うかなぁと思ってしまうことが多々あります。

多くの認識が「自分は自分。他人は他人。それはあなたのやることだから私は関係ない。」という雰囲気なんですね。これは違うと思うんです。

「課題の分離」とは自分勝手に生きていいという概念ではなく、突き詰めれば人と協力して生きていくための概念です。

|悪いあの人、かわいそうな私

そしてもう一つ、アドラー心理学で気を付けたいことは「悪いあの人」「かわいそうな私」をフォローしないことです。

お悩みを聞いていますとお話の内容は終始この2つで語られます。
でもこれって何も解決しないんですね。
私は何も悪くなく、周りが私を悪くするといった具合に。
大前提として他人は変えることができないんです。いつだって変わることができるのは自分のみ。でもだからこそ人生は自由とも言えます。

いつも気にしなきゃいけないのは「これからどうするか」です。

|結末を体験してもらう

さて、今回の女性のケースに戻って考えてみようと思うのですが、まず女性はひたすら「席を空けてもらうための独り言」を言いながら「かわいそうな私」を演出することで、直接的に依頼しなくても周りに察してもらい、席を空けてもらうような行動をとっています。

その発言と態度を察知しはじめ、周りの利用客もその女性をチラチラと気にするようになりました。終いには店員さんも駆けつけ、その時点ではその女性の思惑は順調です。目標達成まではあと少し。

多くの人はその圧に耐えられず、席を譲ってしまうことが多いし、日本ではそれが「親切」である雰囲気があるのは事実です。

しかしそれが果たして本当に「親切」なのか考えてみたいのです。

確かに席を譲ったことでその場は解決したかもしれないですが、席の譲られ待ちをしていたその女性の学びにはなったのでしょうか。
私はそうは思いません。

その女性は「かわいそうな私」を演出することで、まわりの罪悪感を利用し、しかも独り言で済ませることで相手に察してもらうのを待ち、自分は動こうとせず結果を得ようとしています。これらの行為が悪いことであるという定義はありませんが、気持ちがいいものではないですよね。

アドラー心理学ではタイプの類型を好みませんが、しいて当てはめるのであれば、「消極的で、かつ甘やかされた子どものライフスタイル」と言えるかもしれません。

これは健全とはいえない。
あの場に特定した場合において「席を譲る」ケースは、不健全な成功体験を女性の中に蓄積させてしまうことになります。おそらくそれまでにも多くをこのやり方で解決してきたのだろうなということは言うまでもありません。

ではあの場における女性の予想される結末はなんだったのでしょうか。

「自分から働きかけなければ物事は健全に進まない」ということではないでしょうか。
ずっと立ち尽くしているだけではもちろん席が空くのをただ待つか、座れないまま店を後にする結末しかありません。今回は健全な方法ではないにしろ、暗黙的なやり方で働きかけをしていましたが、それは今後の自分の人生においてあまりためになるやり方とはいえません。

ではどうすることがアドラー心理学的にはより良いのでしょうか。

まず女性は「感じ取ってもらう」のではなく、「伝える」姿勢があれば対人関係は明るいものになるかもしれない。私は、カフェなどに行って席が満席でしたら、ひたすら待ったり、陰湿なやり方はしません。空きそうになければ店を後にしますし、しっかり観察して空きそうなテーブルがあれば声を掛けます。「もしもうお帰りのようであればお席をお譲りいただきたいのですが、よろしいですか?」と。みなさん快く譲ってくださいます。それで、「すいません、まだもう少しいるんです。」と言われればそれはそれでいいんです。

大事なのはコミュニケーションです。気持ちを伝えること。みんな仲間で、対等で、信頼して依頼してみること。裏切られてもいいんです。

一方、女性側から「譲りなさいよ空気」をバンバンに受けている利用客のみなさんはどういう選択肢や考え方があるでしょうか。

ひとつはコーヒーももう飲んだし、ケーキも食べたし、ひとしきり落ち着いたならお譲りしても良いかもしれない。これはどちらかというとその女性の発言をきっかけにして自分たちの希望を満たしたニュアンスに近いかもしれません。だからその女性に支配されたとは言い切れませんね。

もうひとつは女性がそのまま独り言を続けて「空気」を発信し続けるなら、その行為に関心は寄せず、自分たちの時間を楽しむことに専念する。これは一見冷たいように思われるかもしれませんが、みなさんがコーヒーやケーキ、そして会話をしている時間を他人が奪い取る権利はありませんし、席を譲る義務もありません。それに、一番大きいのはその女性に対して「自然的な結末」を体験させることができるからです。
もし独り言を続けても誰も席を譲ってくれなければ、この方法では成功しないんだなと学ぶことができます。人によってはそのことによりさらに不健全な方向に行く人もいますが、それは個人の人生の捉え方と選択の仕方にかかっているので私たちにはどうすることもできません。

もうひとつ選択肢があります。
「声をかけられたら、可能な限り応じる」です。
もしその女性が陰湿的なこともせず、素直に声をかけてきたのであれば、それには真摯に対応しなくてはいけません。これは別に声をかけられたら必ず席を譲らなくてはいけないということではなく、可能であれば譲ればいいのです。まだ飲食も途中なら丁寧に断ればいい。

この対応は課題の分離のその先のお話です。

課題の分離は、この課題の最終的な結末を誰が引き受けるかを明確にしたうえで、お互いできることは援助しますよという姿勢を理想とします。依頼を受ければ「個々の課題」から「共同の課題」への可能性を考えるわけですね。

今回のケースで声をかけられた場合、共同の課題にできるかを考え、結果席を譲るという行動につながるケースは十分に考えられます。
これはとても健全で協力し合っていますね。

また前倒しでこちらから「どうされましたか?」と聞いてみるのもありかもしれない。それで相手がどうしたいのかを引き出す。このやり方はこちらからメニューを出している感じであまり好きではありませんが、女性が気持ちを伝える言葉を出すきっかけにはなれるかもしれません。

といった具合に、上に挙げたような選択肢があるわけですね。
他にもあるかもしれないですが、大体こんなもんだと思います。

|まとめ

どういった行動をとるかは人それぞれですし、正解なんてのはないですから好き好きでいいのですが、私は今回少し後悔でしたね。
自然的結末を体験してもらう機会を奪ってしまった。
私のグループがとった行動は、それはそれで勇気のある行動なので否定はもちろんできませんし、良かったとも思う。
ただ個人的にその席を譲ってもらいたい女性の行動に対して、考え深くなってしまいました。

アドラーは「永遠を眺めるような目」とよく言っていました。
これは私の解釈ですが、目の前のことではなく、ずーっと先のことを見据えた時に、今最善と思えることを判断できる目、という意味なのではないかなと現段階では思っています。(年々更新するかもしれません笑)
この場合のずーっと先ってのは、数年後とか、人生の晩年とかいうレベルではなく、いつか行きつくかもしれない「絶対の真理」の領域のことです。
これもアドラーは「共同体感覚」の説明の際言っていたことです。

人はより良くなりたいという強い気持ちを持っています。
それは「絶対の真理」に向かっていて、だけれども、そこにたどり着くには非常にゆっくりしかいけないんです。たくさんの間違いをしながら少しずつ前に進むことでしか近づくことができない。

そう言ったことから、「結末を体験させる」ということがアドラー心理学では非常に大切なキーワードになっているわけですね。

そして今回のケース。
みなさんはどうお考えですか?
そしてどんな行動をとったでしょうか。

わたしも常に「どうすればいいか」「なぜそうなのか」「何ができるか」を自分に問い続けながら日々を生活していこうと思います。

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