カウンセラーの田山です。
コロナウイルス、緊急事態宣言、ソーシャルディスタンス…。明らかに今までとは違う空気感に、世の中全体が神経症的になっているなと感じることがあったんです。
先ほどの話しなんですが、ちょうど家で切らしたものがあったのでコンビニに買い足しに行きました。
久々の外です。
買い物以外はこもりっきりの生活をしていて、買い物といっても買い物自体しばらく行ってなかったので、本当に久々の外出になりました。
コンビニまでは大体6分くらいですかね。久々のウォーキングを味わいながらのんびり向かっていたんですが、さすがに道中は人ひとり会いませんでした。
|コンビニの人々
コンビニに着くと先ほどまでの道中が嘘のように店内には人が。
でも何だかとても違和感なんです。
「店内の人たちの姿勢や挙動がおかしい…。」
これは私自身に色眼鏡がかかっていてフィルターを通してそう見えるのかもしれませんが、それでも普段からこういった仕事してますから他の職種の方よりは客観的に、そして敏感に、より正確に察知は出来ていると思うんです。
どうやらみなさん、体が外界に対してとても怯えている。
様々な方向を確認する回数が多く、体は縮こまり、人との距離を気にしている。
おそらくはコロナウイルスへの恐怖と、ソーシャルディスタンス(社会的距離)を気にしていつも以上に挙動が変化しているんだと思うんです。
例えば私が他のお客さんの横を通りかかろうとすると、いきなり距離を取りながら眉間にしわを寄せながら目線を合わせてくる。その様子はまるで神経症的な挙動でした。
|心が不健康になってきている
よく私は自身が主催している勉強会などで「勇気づけする時に、”人々は仲間であり、自分には能力がある”という点に注目して考えてみましょう」と言ったりします。
「人々は仲間であり、自分には能力がある」というのは心の健康のバロメーターなんです。こう思えていたら自分や他人を信頼でき、ゆったりと構えて協力的に人生の諸問題を仲間とともに乗り越えていくことができる。
これが例えば「人々は敵であり、自分には能力がない」と思うようになると、非行に走ったり、犯罪を犯したり、神経症になったり、精神疾患につながったりすることもあるんです。
今まさに世の中は「人々は敵であり、自分には能力がない」になっているように感じます。
自分以外の人はコロナウイルスを持っているかもしれず、自分を脅かす脅威であり、それに対抗する能力が自分にはない。
周りの世界に対してどう思い、どう行動するかはその人の自由ですから、そのように思い行動されるのはそれはそれでOKですし、他人の課題ですから私が言うほどでもないんですが、何だか少し残念に思ったんですよね。
|行動の中身が大切
感染拡大防止のために政府も色々と知恵を出し、その策を私たちに提案してくれました。例えばソーシャルディスタンスはウイルスから自分たちを守る対策であって、決して「人」を敵対視し、危険なものと認知して、嫌がりながら距離を置くものではありません。
物理的に距離は置くけれども、人々は仲間であり、その行動の中身は「協力」なんです。
「人々はウイルスを持っているかもしれない、移されるかもしれない」と思うなら、そう思った本人も他の人から見たら同じようなウイルスを持っているかもしれない存在なんです。
お互い様なんです。
同じ距離を置くんでも、相手を敵と思うか仲間と思うかで世の中の雰囲気はずいぶん変わると私は思うんですよね。お互いにらみ合い緊張状態で距離を置くのか、お互い頑張ろうねと思い、笑顔の一つでも見せながら距離を置くのか、他人にどうしろとは言いませんが、自分の課題としてこのことは気にしながら過ごしていきたいなと思いました。
|幸せか不幸かは、自分が選べる
アドラー心理学はすべての人々は対等であると考えたいんです。大人子ども、性別、考え方、国、人種、命あるもの、一つとして価値のないものはないんです。
例えば耳が聞こえない人は他の人に比べて価値がないかといえば、もちろんそんなことありません。目が見えなくても、足がなくても、発達が遅れていても、そしてウイルスを持っていても価値はみんな等しく平等です。
他人から見て「かわいそう」と思える人は、本当はいないのかもしれません。そう思うならもしかして自分は優れていて、相手は劣っているという縦の関係の考え方になっていないか一度振り返ってみてほしい。
みんなそれぞれの条件でそれぞれの人生を工夫しながら生きているんです。その人生が幸せなものか不幸せなものかは誰かが決めるものでもなければ、生まれた環境や客観的な劣等性で決まるものでもありません。自分が決めるものです。
目が見えなくても、幸せで生きるか、不幸せで生きるかはその人が決めることができる。
ウイルスが蔓延していても、幸せで生きるか、不幸せで生きるかはそれぞれが決められるんです。
「ウイルスが蔓延しているから不幸である」というのはフィクションであり、そのように思えばそのように世界は動いて見えるし、そのように思わなければ違うように世界は動いて見えるんです。
どうせ選べるのなら、私は幸せに今の状況を生きていきたいなと思う。
いがみ合うのではなく、いたわり合いながら。
にらみ合うのではなく、微笑み合いながら。
敵対するんではなく、協力し合いながら。
どんなに不平不満を言っても、この状況が変わるわけではないし、「今」を過ごさないといけないことに変わりはありません。悪いところに目を向けるのではなく、良かったことに注目して、前向きに「今」を過ごしていきたいなと思います。