試験などとは少し性質が違い、「オーディション」というものは非常に人間関係が絡んできて、時に自分を苦しめる厄介な存在となります。
自身の「パフォーマンス」という、点数が本来つけられない内容を審査するわけですから、そこには当然様々な立場の人の「主観」が入ってくるわけです。
「オーディション」などで、悩んでしまう時の心のあり方をお話を通してお伝えします。
まず自分を苦しめてしまう可能性のある要因をあげてみましょう。
・複数の審査員
・自分自身
・ライバルの存在
・自身のパフォーマンスを指導する先生
・合否までの時間
他にも細かく言えば出てきますが、オーディションを受けるとなるとこれらのことは必ずと言っていいほど悩みの種となります。
先日、オーディションを受けたけれど自分ではあまり上手くできなかったと悩んでいる方のお話を聞きました。許可を頂きましたので内容を少しご紹介させていただこうと思います。
お話を聞いていくと、どうやらオーディションの合否が出るまでの間に自分の指導をしてくれている先生とお話をした際、先生から他の出場者の方と比較され、かつ結果がまだ出ていないにも関わらず「残念でした」と言われてしまったそうです。先生のことを信頼されていましたので、そのことも重なりさらに心を重くされていました。
このお話からはとても多くの問題が見えてきました。
まず、本来悩みというのはシンプルな形をしています。心が重くなっているときは大抵悩みを抱えている本人が外からの様々な情報を自分の悩みに絡めて大きく複雑なものにしてしまいがちです。
なので、自分の悩みと向き合い、悩みを本来のシンプルな形に解いていく作業が必要です。
ここで役立つのが心理学でいう「課題の分離」です。これは当ブログでも頻繁に出てくる心理学の考え方ですね。人生をシンプルにしてくれます。
まず「オーディションを終えて自分で感じた出来栄え」と「オーディション結果がどうなるか、審査員はどういう審査結果を下すか」というのは、一つの悩みとしてまとめてしまいがちですが、ここは明確に「課題の分離」をしなくてはいけません。
オーディションを受けた際、本来自分自身で悩むべきはこの 「オーディションを終えて自分で感じた出来栄え」 だけで十分です。これは振り返ることにより、次に活かすこともできますし、どう受け止めるかは自分で決定することができます。つまり「自分の課題」です。
その一方、 「オーディション結果がどうなるか、審査員はどういう審査結果を下すか」 というのは自分では動かしようのない、関与することができない「他人の課題」であることが分かります。陸上競技や数学のテストのように、絶対的な数値では評価できないため、仮にパフォーマンスを数字で表す審査方法だとしても、そこには必ず審査員ひとりひとり全く違うそれぞれの主観が関わってきます。たとえばそれが学校組織や、メディア関係など、審査する場所によってはそれぞれの組織の”政治”が関わってくることだってあるかもしれません。
もし仮にオーディションを受けた人がその審査をしてくる組織に所属していた場合、この上に書いた「他人の課題」である領域までも自分の悩みとして考えてしまい、結果自分の心をより一層重くしてしまいます。
オーディションとはシステム上、人とどうしても比べられてしまい、その結果には必ず「選ばれたか」「選ばれなかったか」という二択のうち一方を突き付けられてしまいます。そこに着目してしまうと、選ばれなかった場合人はどうしても「自分は〇〇さんより劣っているんだ。ダメなんだ。才能がないのかもしれない。」とネガティブな方向に物事を考えていってしまいがちです。
しかしここは声を大にして言いたいです。
そんなことありません!
ここは明確に否定しておかなければなりません。人はそれぞれ持っている条件が違います。条件が違えばそこから出てくるものも一つとして同じものは出てきません。つまり「比べようがない」んです!だから選ばれなかったとしてもあなたはとても価値があります。選ばれた人が持っていない価値をあなたは持っているし、それは揺るがない事実です。
ドライな言い方にはなりますが、オーディションは所詮選ぶ側の都合でしかありません。
そこに意味を見出してはいけません。戦うべきはライバルでも、審査員でもなく、「自分自身」です。
オーディションに対する心のあり方は以上になるのですが、お話してくださった方を悩ませる問題はまだ他にも隠れていました。
それは「信頼している先生から言われた、他の出場者と比較しながらの残酷な言葉」。
言われたら当然落ち込みます。辛くなります。余計に自分の中でも人と比べてしまいます。
この話を聞いたとき、当然落ち込んでしまうのは理解できるのですが、私が疑問に感じたのは「なぜ先生はそんなことを言ってしまうのか」という点です。
無意識にせよ、悪気がなかったにせよ、他の人と比較して教え子を否定するのは教育として良いモデルとは言えません。自己肯定感を下げ、劣等感を増幅させ、より一層競争社会の枠組みに身を落とし、自分の価値を人との比較でしか見いだせないようになってしまうからです。教育のあり方に熱心に取り組んでいた心理学者のアドラーも競争社会のシステムを強く否定していました。
そこで今度は先生に焦点を当ててお話を伺うと、新たな側面が出てきました。
どうやら今回お話を伺った方は、その先生の門下のいわゆる「出世頭」だったようで、以前のオーディションで何度か受かった際、事実上先生の評価も上がっていったそうです。そこからはオーディションの出来栄えに本人以上に一喜一憂していた様子でした。
これでは相当なプレッシャーがかかってくるのは当然ですよね。先生自身も無意識のうちに自身の出世とオーディションの結果を結びつけている可能性も出てきます。
先生と直接お話を私がしたわけではないし、本来は「他人の課題」の領域のお話なので推測の話にはなりますが、ここからはあくまでお悩みを抱えてる方の心を少しでも軽くするための「考え方」のお話をしたいと思います。
まず先生は知らず知らずのうちにどっぷりと「競争社会」に身を浸からせていたのかもしれません。健全な師弟関係が「オーディションに受かったこと」で「先生自身の昇格」につながり、その成功体験が味を占め、悪気がないにせよ生徒をいつしか出世のための所有物としてしまった。
これは何度も言いますがあくまで推測の話です。「心を軽くするための考え方」ね。
仮に上のような状態になってしまっていても本人は気づいていないことがほとんどです。悪気はないのです。だから一概に先生を責めることもできません。「競争社会を必死に生きてしまっている、かわいそうな状態」と思ってあげてください。
もし健全に生徒の事だけ思っていれば、「こことここは普段より力を出せなかったかもしれないけど、ここはいつもより良かった!結果は分からないけど、やれることはやったから今回のことをまた次に活かして頑張りましょう。オーディションを受けてくれてありがとう。」これでいいはずです。
これが「〇〇さんは素晴らしかった。」「練習の時の方が良かった。」「残念でした」という発言は、あくまで自分が得たかった結果を裏切られ、その裏切られた思いを生徒にぶつけている状態です。 「残念でした」 というのは自分が「残念」だったのです。
「課題の分離」でいう、先生は「他人の課題」に踏み込み、その領域を「自分の課題」として捉え、競争社会の利害得失を生徒にぶつけてしまっているのです。
先生の思いを客観視し、「先生は辛い世界で生きているんだな」と憐れんであげることで先生の発言も理解でき、自分の心もまた軽くすることができます。
現代社会、中々競争社会から脱却することが困難な時代です。周りは変えられませんが、自分の受け止め方や、心のあり方の決定は自分にゆだねられています。
考え方を変えるだけで世界は劇的に変わります。自分の人生をよりよくするためにも、まずは自分が変わってみましょう。
お悩みで辛いことがあったら、いつでも頼ってきてくださいね。