道徳教材『かぼちゃのつる』が批判されていたので、アドラー心理学で考えてみた。

先日、Twitterで小学校の道徳教材で使われている『かぼちゃのつる』という教材の教える内容が「ひどい」と盛り上がっていたのでちょっと調べてみたんです。
学習指導要領などの前情報をなしに全文を読んでみると、個人的には「そんなに問題か?」と思いました。この作品はアドラー心理学の視点で考えると割と合点がいくように思いますので、解説してみますね。

まず知らない方のために、『かぼちゃのつる』という作品について少し解説します。

1.登場人物


・かぼちゃ
・みつばち
・ちょうちょう
・すいか
・こいぬ

このうちの「かぼちゃ」がこの物語の中心になっていきます。

2.あらすじ


太陽の下、かぼちゃがどんどんつるを伸ばしていくのですが、伸びていくそのつるは自分の畑からいよいよ飛び出し、みんなのとおる道にまで飛び出てしまいます。

つるが飛び出してしまっているかぼちゃに対して、みつばちやちょうちょうが「みんなのとおる道だから」と注意したり、すいかが「ここは僕の畑だから、自分の畑に伸ばしてほしい」と注意したりと、みんながかぼちゃに注意を促すのですがかぼちゃは「そんなことかまうものか。」「いやだい。僕はこっちにのびたいんだ。」と言ってまわりの意見を聞き入れようとはしませんでした。

そうやってつるを好き放題に伸ばしていった結果、道をとおった荷車のタイヤにつるを切られてしまい、痛い思いをして涙を流すという物語。

「かぼちゃのつる 全文」と検索すると出てきますので、ぜひ読んでみてくださいね。

3.主な批判内容


・多様性が求められる社会のはずでは?
・わがままな行為をするなとと伝えたいのか
・規律を守らなければしっぺ返し?
・出る杭は打たれる?
・「同調」と「節度」の押し付けであるなど

批判全体の雰囲気を見てみると、「人の意見は聞くべきだ」や「わがままと自由」の混同など、個人の主張を抑えつけられているような印象が強かったんですかね。
でもこういう意見が出てくるということは、以前よりもより「自分らしく」の傾向が強まってきたということでもあるかもしれません。その点は時代の雰囲気が変わってきたとも考えられました。

いずれにせよ、様々な指導案があるので一概に批判はできませんし、作品自体に罪はないと思います。作品から何を受け取るかは完全に個人の主観にかかっています。

アドラーは著書でこう言っています。

どちらにしろ「どうとらえるか」が人間の世界観の基本となり、思考、感情、意思、行動を決めているのは明白です。

『生きる意味』アルフレッド・アドラー著(P29より)

そして問題は授業で教師がどのように取り上げるか、解釈するか、意味づけをしていくのかにかかっているともいえるかもしれません。

4.アドラー心理学的な指導


アドラー心理学では「課題の分離」という概念があります。
選んだ決断によって起こりえる最終的な結末を引き受けるのは誰か、という点を考えていきます。

まずつるを伸ばしていくかぼちゃ。
読んだ印象ではかぼちゃは「自分の意思」でつるを伸ばしていきます。
伸ばしたつるは確かに道路に差し掛かり、他の人の迷惑になるかもしれません。
それを気にした他の登場人物たちは色んな言い方で声をかけ、注意や提案をするわけです。(中には自分の都合を押し付けているような印象をあたえるものもありましたが…)
しかしかぼちゃはそれでも伸びていく意思をかえません。

「課題の分離」で考えた時、注意や提案は一緒に問題を解決する「共同の課題」になれるかの分岐点と言えます。
それでかぼちゃが注意や提案を拒否した場合は、課題を分離し、つるを自由に伸ばすことによる最終的な結末はかぼちゃに引き受けてもらう形になります。

もちろんそれが命の危険を伴うようであれば、そんなこと言ってないでまずはとにかく止めることが何より大事ですよ。そのあとに説明をすればいい。
ただ今回はそのような緊迫した印象は受けませんでしたので、そこは一旦置いておくことにします。

これらのことを前提に、この教材でどんなことを子どもたちに考えてほしいかをアドラー心理学の視点から考えてみます。

アドラー心理学の教育ではとくにこれは誰の課題で、その課題を引き受けた際の最終的な結末を予想させることを重視します。

子どもたちに問いたいのは、これらの状況の中、自分の畑から飛び出してつるを伸ばしていくことでどんなことが起きる可能性があるかを考えてほしい。

道路に差し掛かることでどんなことが起こりえるか。
スイカの畑に入るとどんなことが起こりそうか。

そして同時に、より合理的に自分も他の人も幸せになれるようにするにはどんな解決策があるかを検討してほしい。

つるを伸ばしていくことは変えず、他にもっとうまい選択肢はないか。
提案や注意してきた中に、取り入れられそうなものはなかったか。

気を付けたいのは「これは悪い事」「こうしてはいけないもの」「こうあるべきだ」など、物事や状況を教師が決めつけて話を進めてしまうようなことは避けたいです。
それらが実際に法律などで決められているなら、守るように教えることは大切ですが、あくまで雰囲気でしかない暗黙のルールのようなものを、あたかも「こうあるべきもの・守るべきもの」であると教えるのは望ましいとは思いません。

消去法で物事を考えていくのではなく、どんどん色んな案を出せるようにしていく方が子どもたちの人生において様々な状況における選択肢が増えます。

色んな方の指導案を見させていただきましたが、一番目立った言葉が「わがまま」でした。「わがまま」ってすごい強力で恐ろしい言葉だと思う。それを言えば簡単に人の行動を支配できますし、「自分を出してはいけない」と心に植え付けるには持って来いの言葉です。
「わがままはいけない」、確かに人の迷惑を考えず好き勝手やっていくことはあまり好ましくないことかもしれませんが、それ以上に人のことばかりを考え、自分を抑えて生きていくことも健全とは呼べないと思うんです。

私は「わがまま」という言葉は、ある特定の状態のネガティブな面だけを抜き出した言葉だと思っているんです。
「わがまま」であるというのは、自分を大切に考えられる、自分を持っている、強い意志を持っているということであります。これらって必要な要素だと思う。

自分を抑えてれば、自分の可能性に気づくこともできなくなります。
ネガティブな方に考えていくのではなく、自分の持っているものを発揮しながら、周りと健康的な関係を作れる方法を考えていくことが日本を明るくすることにもつながるのではないでしょうか。

子どもたちを信頼し、一人ひとりの意見を一緒に検討する。
教師がその子どもの意見は間違っていると思っても否定はせず、一緒に考え、子どもに洞察・気づきを起こしてもらう方向を目指したいところです。

5.まとめ


様々な指導案を見ていて、「低学年は自己中心的な行動が多い」という記述も多く見かけましたが、それは確かにそうかもしれない。
しかしそれ自体は問題ではないし、自己中心的な性格を消そうとする必要もないと思うんです。必要なのは、自己中心性に加え、他者への関心・貢献する態度を上乗せすることだと私は思います。

それに今回の「かぼちゃのつる」のようなケースで一番子どもたちになってほしくないパターンは、つるを切られたことにより、それを誰かのせいにしたり、まわりに当たり散らすようなことをしてほしくない。

自分で選んだ選択に責任を持ち、最終的な結末を引き受けられる、自立した人間になってほしいと思います。

生きている限り、人に迷惑はかけるし、かけられてしまう事は避けられないことの方が多いです。そんな中でも、しっかりと自分の責任を引き受けられるかをこのストーリーで子どもたちに考えてほしいと私は思いました。

みなさんは「かぼちゃのつる」、どう思いましたか?

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